のあろぐ

「もぐらゲームス」・「Mogura VR」を立ち上げて運営している、のあPことNoahの個人ブログ。

意図が息苦しい


最近ネットで話題になるもの、話題になる以上になんらかの意図が強すぎて嫌だ。

無料だけど何かの商品サービスへの導線になっていたりするものを小難しい理屈を組み立ててフリーミアムと呼んでドヤ顔してる。
まとめサイトのリンクに飛ぶと、あたかも飛行機の乗り継ぎみたいに、沢山のまとめサイトの記事が載ってるページに一度飛ばされてからようやく該当の記事に飛ぶ。これだってなんらかの意図があるのだろう。おそらく滞在時間が伸びたりハブを作ることで他への導線になってるんだろう。
2000年代後半ぐらいに、仕組みやフレームワークに対する意識は急速に高まって、誰もがマーケティングという皮をかぶったインチキみたいな処世術を身につけた。
でもそれはマーケティングとは似て非なるものだ。だって顧客としての僕は理解もされていないし、満足もしていない。
ビジネススタイルだけでなく人の意識も変わった。
これからは個人の時代と言わんばかりに、不必要に個人のネームを売るような本や記事ばかり目に付く。
大衆に心地よいことばかり言って、信者-教祖関係を作り上げたものが1番もてはやされ、そのためには炎上だって辞さない。兎に角セルネームだ。
 
ものごとは白と言おうが黒と言おうが、たいていのことには理屈がついてしまう。
そうやって理屈をつけてやると理屈があるからと言う理由で納得してしまう合理的人間こそ、たやすい。その理屈は真実である必要もなくなってしまったのだが。
大衆はひと山いくらで取引され、動かしやすい山ほど教祖にとって価値がある。それはマス層というような言葉でふだんは浄化されている。
 
意図を持ってないコンテンツがぼくは好きだった。
書きたいから書く、作りたいから作る、内的衝動に突き動かされる創作行動が好きだった。そこには小賢しい意図は存在しない。手段=目的の世界はとても心地よい。
今はほとんどのものに意図があり、作品からは尋常じゃないぐらいのヒト臭さがある。
その悪い意味でヒト臭いコンテンツに迎合する自分もまたマス層とやらのひとりであることに思いを寄せるたび、耐えられなくて泣きそうになる。
 
戦略的な思考とやらが蔓延った結果、ぼくにとってはほんの少し息苦しい世の中が実現した。