のあろぐ

「もぐらゲームス」・「Mogura VR」を立ち上げて運営している、のあPことNoahの個人ブログ。

任天堂の哲学とFlappy Bird


久々に、任天堂のゲーム作りへの哲学を確認したくなり、色々とWEBページを漁っていた。
岩田社長がゲーム開発者にインタビューをする「社長が訊く」はあまりにも有名だし、どれも任天堂の哲学が伝わってきて素晴らしい。

もうひとつオススメなのが、糸井重里さんがやっている「ほぼ日」の中の1コンテンツとして運営されている「樹の上の秘密基地」だ。そのなかでも、糸井重里さんが岩田社長や、宮本茂さんと対談するコンテンツは、もう読むたびに画面に赤ペンで印をつけたくなるような出来なので是非色々な方に読んでいただきたい。

 

「万人が遊べるゲームをどう作るか」という問題

その中に、「宮本茂はどういうふうに構造をつくっていくのか。」という対談記事がある。これは宮本茂さんが携わった「ピクミン3」の発売にあたって組まれた企画なのだが、タイトルにもあるようにどちらかと言えば「宮本茂的ゲーム論」がメインコンテンツだ。そのなかで、宮本さんはこんなふうに語っている。

で、この「難しい」という問題についてはある意味、どうしようもないわけですよ。
だって上手い人と下手な人が同じように遊んで、あるいは、我慢強い人と我慢強くない人がいて、両方が「ちょうどいい」って感じることはありえないので。
そうすると、アクションゲームっていうのは、ファミコンの『マリオ』のころはよかったけど、お客さんがいまの規模になるともう、万人が遊べるようなものは、つくれへんのかなって。

 ここで語られている「万人が遊べるような」ゲームをつくるのだ、という問題意識は、宮本茂個人の問題意識というよりはむしろ、任天堂の問題意識そのものだ。だから任天堂Wiiをつくり、DSをつくり、さらにゲームソフトをつくっている(WiiUはまだ十分受け入れられたとはいえないけれど)。

 

星のカービィ」という答え

任天堂の(追記:正確には、任天堂のセカンドパーティであるHAL研究所の、ですね。失礼しました。)クリエイターであり、カービィスマブラの生みの親でもある桜井政博氏も少し違うが、同様の趣旨のことを言っている。

 

難易度はゲームそのもの。(中略)百戦錬磨の人と、まったくの初心者とを同時に満足させるのは無理があります。とくにアクションゲームにおいては。(ファミ通桜井政博のゲームについて思うこと」Vol.391)

 

この問題に対して向き合ったとき、生まれる回答の1つは「ゲームの難易度を下げること」だ。桜井政博氏自身がコラムのなかで語っているように、星のカービィ」は、「ゲーム性を捨ててまで割り切り、初心者のみにフォーカスしたゲーム」だった。敵に当たってダメージを受ける前に「すいこむ」ことができ、「飛ぶ」ことでゴールまで行けるがゆえに、これまでの横スクロールアクションゲームの敷居をうんと下げた。それは「多くの人に楽しまれるゲーム」ということへの1つの回答だったのかもしれない。

 

すべてのゲームがそうとは言わないが、「万人に楽しまれるゲーム」を考えたとき、「難易度を下げる」ということはひとつの回答でありつづけている(もちろん、難易度をただ下げるだけでは人はワクワクしないから、難易度の低いゲームで楽しませることもまたとても技量の要ることだ)。

 

「難易度を上げて同じ土俵に立たせる」という発想

ここに、ある意味全く逆の回答を持ち込んだのが「Flappy Bird」だったのかもしれない。このゲームをめぐる騒動については、以下に詳しくまとまっているのでここでは割愛させていただきたい。

半年間無名だったのに突然爆発的大ヒットで1日500万円を得たが消滅した「Flappy Bird」とは?そして人気絶頂でアプリを削除した作者へのインタビュー - GIGAZINE

 

ここで言及したいのは、FlappyBirdというゲーム自体のことだ。

 

Flappy Bird Gameplay - YouTube

 

動画を見て分かる通り、このゲーム、非常に難しい。数回プレイしただけなら、3回程度行ければいいほう、10回行けたら相当賞賛されていいレベルではなかろうか。
少しやっているとすぐに回数がある程度まで伸びていって、上達感が味わえる。

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それでも、まあ一般的なコミュニティ内だったら上達したと言ってもせいぜい数十回程度がいいところで、その先には集中力の限界という壁がある。
結局、難易度の高さによってうまい人と下手な人の間でもそんなに差は開かないように出来ているのだ(世界ランキングを見ると9999+みたいな感じになっていて卒倒するが)。

 

FlappyBirdは先程の「万人が楽しめるゲームをどう作るか」という問題に対して、「圧倒的に難易度を上げることによって、プレイヤー全員を同じ土俵に立たせる」という回答を示したゲームだ、といえるかもしれない。

 

失われない「シンプルさ」の重要性

しかも、その回答は非常にシンプルなデザインによって達成されている。
ふつうは、難易度を上げるためにゲームは複雑になったり、すぐ死にすぎてそれがストレスになったりする。そもそもルールの理解にすら時間がかかる。だから、敷居が高くなる。
対して、Flappy Birdの仕組みは非常にシンプルだ。難易度を規定しているのは、土管の幅(当たり判定)、鳥のジャンプ、画面のスクロールスピード、ぐらいのものだろう。この限られた要素をコントロールすることで、絶妙な難易度を作り出している

 

先ほどの対談の中で、宮本さんはこうも語っている。

最近は、骨組みの中心ではないところに余分なものをどんどんくっつける傾向がありますね。だからぼく、現場ではいつも「つけるな、つけるな」って言ってるんですけど。

 

良いゲームは非常にシンプルだ。みんなが楽しんでいるゲームや、長い間親しまれているあそびは、とても単純な構造のものが多い。しかし、シンプルであろうとすることは、勇気がいる。何もつけないありのままの裸どころか、自分の骨格をみられているようなものだ。そして、骨組みを美しく魅せることは、むしろ着飾るよりも難しい。シンプルなゲームをおもしろく創り上げるということは、非常に難しい課題でありつづけている。

FlappyBirdというゲームは、「万人が楽しめるゲーム」をどう作るか、という、ゲームに横たわる普遍的な課題に対して、シンプルさを踏襲しながら、任天堂とはまた趣の違った回答を示したという点で非常に考えさせられるゲームだった。